多文化コンシェルジュ名鑑

宮本ルーカス

出身国  :ブラジル

言語   :ポルトガル語・日本語







言葉の壁

 父と母が日本へ出稼ぎに来ていたため、約13年前の冬に来日しました。「ありがとう」と「さようなら」しか日本語がわからなかった14才の自分は、来日2日目に、父に近くのコンビニまで行くように言われ、千円札1枚「TerefonKado Senen Onegaishimasu」と書かれた紙切れを手渡され、紙に書かれていた内容を言えばいいとのことでした。親と連絡が取れるようにと、今でも持っている飛行機の写真のテレフォンカードを買いました。

 自分の最初の日本の印象は「道路がすごくキレイだけどなんだか狭い」「車のハンドルの位置が逆なんだ」「ご飯は炊飯器で炊くんだ」「16時に暗くなるのはなぜ」「看板や標識が全く読めない」「みんな同じ顔をしているな」「風が強い」「家に入るとき靴は玄関でぬぐんだ」「言葉が全く通じないな」の9つでした。

 日本に来る前に「日本人はみんな英語がしゃべれる」と父に言われていたので、中学校で勉強した英語がわかれば何とかなると安心していましたが、それが全く通じませんでした。

 年末年始の休みが終わり共働きの父と母が朝に家を出て夜遅く帰ってくるまで5歳の妹の保育園への送り迎えと家事の一部を11歳の弟と2人でやっていました。暇なときにはテレビをつけて見ていましたが、言っていることが全く分からず、趣味のテレビゲームもできず、悔しい思いをしていました。自然に日本語を勉強したいと思い、来日して一ヶ月で中学2年生に入学しました。

 そこから徐々に日本語を覚え、覚えれば覚えるほど難しいものに挑戦したいという気持ちが湧いてきて、一所懸命に努力しました。卒業するときに「10年後の自分はどうなっているのか」というものを書いたのですが、「日本語が話せるようになっている」と書きました。

 卒業後は進学せず就職しましたが、仕事のあとに勉強を続けた結果、数年後には日本語能力試験2級に合格することができました。

 振り返ってみると外国人にとっての日本での暮らしやすさのバロメーターの一つは日本語をどのぐらいできるかのではないかと思います。外国人が多く住む浜松には重要なところに通訳がいますし、外国語の説明書やチラシ、看板までありますので最低限のコミュニケーションは公共サービスとして保証されています。しかし、言葉が通じないだけでかなり制限された生活をおくることになってしまいます。

 多文化コンシェルジュを受講したいと思ったのは、言葉ができるようになると生活が豊かになるということを広めたかったからです。


 

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